blog136.jpgFrom: 岡崎 匡史
研究室より

日本の人口は多いのか、少ないのか。
政府の見解は、時代に応じて常に変化します。

1872年から日本の敗戦が決定的になるまで、日本の人口は2倍に膨れあがりました。「生めよ増やせよ」と、軍部が旗振りをしていたからです。

はたして、どのようにして急激に人口を増大させたのか?

人口政策確立要綱

1941(昭和16)年2月、日本帝国政府は国家百年の大計「人口政策確立要綱」を閣議決定。1960(昭和35)年までに、日本国内の総人口を1億人に増やすという目標を掲げたのです。

帝国政府が打ち立てた出生率上昇策は、(1)結婚年齢を3年早める(2)一夫婦の平均出生児の目標を5人とする(3)避妊を禁止する、というもの。


その一方で、死亡率減少策は、(1)結核対策(2)乳幼児の保健対策(3)健康保健の拡充強化、という施策です。

「人口政策確立要綱」の特徴は、政府支出が極めて少なく、子供が増えれば家庭の生活費が上がることは考慮せず。現在の感覚からすれば、母体の健康を第一に考えて、出産休暇を十分に保障し、保育所を整備し、出生率を増加させるはず、、、

多産多死型

積極的な人口膨張政策によって、戦前の日本は高い出生率を維持した。しかしその反動として、医療制度の不備、栄養不足、衛生状態の悪化が拍車をかける。

貧窮生活により、乳児の栄養失調や病気で数多くの乳幼児が亡くなる。日本の人口動態は「多産多死型」だった。

ところが、陸軍は「人口政策確立要綱」が定めた目標の1億人だけでは飽き足らない。1943(昭和18)年1月、陸軍報道部長の谷萩那華雄(やはぎ なかお・1895〜1949)は、日本人を「最小限二億にまで近き将来に増加させねばならぬ」とまで演説。

国民を先導して出生率の上昇を図ったが、日本帝国は敗戦の衝撃にうろたえる。まるで手のひらを返したように、権力者たちは自己保身に走り、敗戦をくぐり抜けた国民は空腹に喘ぐことになった。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・尾澤彰宣「母子保健人口増殖国策史」『15年戦争と日本医学医療研究会会報』2003年
・GHQ/SCAP『GHQ日本占領史 第4巻 人口』(日本図書センター、 1996年)
・野村拓『講座 医療政策史』(桐書房、2009年)
・川上武『現代日本医療史』(勁草書房、1965年)