blog148.jpgFrom: 岡崎 匡史
研究室より

あなたは「岩倉使節団」ときいて、何を思い浮かべますか?

津田梅子や山川捨松などの女子留学生。大隈重信に使節団の重要性を説いたフルベッキ。不平等条約改正に向けた交渉と挫折など、さまざまな事柄が湧き上がります。

1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけて、岩倉具視(1825〜1883)、木戸孝允(1833〜1877)、大久保利通(1830〜1878)、伊藤博文(1841〜1909)など明治政府の主要メンバーから組織される「岩倉使節団」が欧米に派遣された。

彼らが直面した厳しい壁とは、何だったのか。

信教の自由と文明国


岩倉使節団が訪れた最初の訪問国アメリカでは、日本のキリスト教禁制について激しい非難を受けた。

英国からは、日本では明治維新を成し遂げて「世論が全面的に変化しつつあるというのに、キリスト教の布教と信仰告白に関する法律の条文は変わっていない」と嫌みを言われる。

フランス、ベルギー、ドイツも同様にキリスト教布教と「信教の自由」を認めることを強く要求。使節団の一行は、認識を改めざるを得なかった。「文明国」として認められ、不平等条約を改正させるには「信教の自由」を確立することが必須条件であると。

後に慶応義塾大学を創設することになる福澤諭吉は、忸怩たる思いを「時事小言」という論説に寄せています。キリスト教徒を名乗る西洋諸国は、「明に自他の分別を作り、彼の所謂(いわゆる)万国公法、又は万国普通の権利云々と称するその万国の字も、世界万国の義に非ずして、唯耶蘇(ヤソ)宗派の諸国に通用するのみ。苟(いやしく)もこの宗教外の国に至ては曾(かつ)て万国公法の行われたるものを見ず」と書き残しております。

福澤は、宗教が異なるという理由で、日本が不平等な地位に成り下がっていると分かっていた。

キリスト教解禁

1872(明治5)年、使節団の副使であった伊藤博文は日本に一時帰国。そして、明治新政府に進言をする。


日本ノ法律中ニ外敎ノ明禁ナシト雖(いえど)モ、尙ホ高札ニ其禁令ヲ揭示スルヲ以テ、外人ハ一槪ニ自由信仰ヲ妨クルノ野蛮國ト見做シ對等ノ權ヲ許ス事ヲ甘ンセス。故ニ此高札ノ禁令ヲ除ク事。


外交上、キリスト教の勢力を無視することはできず、屈辱的な関税自主権・治外法権を撤廃させて、「一等国」を目指す明治政府は、政策の方向転換を迫られる。

1873(明治6)年2月24日に、太政官布告で「切支丹(きりしたん)禁制の高札」を撤廃。 キリスト教布教は黙認という形で事実上解禁。欧米諸国に対して、文明国の証しを示すアピールをしたのです。



ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・イアン・ニッシュ編『欧米から見た岩倉使節団』(ミネルヴァ書房、2002年)
・岩谷十郎、西川俊作編『福澤諭吉著作集 第8巻 時事小言 通俗外交論』(慶應義塾大学出版会、2003年)
・春畝公追頌会編『伊藤博文傳』(原書房、1970年)