blog161.jpgFrom: 岡崎 匡史
研究室より

私は、朝起きると緑茶を必ず飲んでいます。
急須に熱湯のお湯を入れると、茶葉のまろやかさが出ないので、適度の湯加減が大事です。

茶道を少しだけ習ったことがありましたが、まったく上達しませんでした。というのも、正座に耐えることができない。全体重が膝にかかるので、5分もしないうちに脚がしびれてくる。茶道の所作を覚える前に、ダイエットが必要だと悟りました。

それはさておき、日本における「お茶」の歴史です。戦国時代、「茶道」は「政治権力」と深く結びついていました。

織田信長と茶会


戦国時代の武将・織田信長は、武功を上げた武将に対して領地ではなく、由緒ある茶器を褒美として与えたことでも有名です。茶器が一国一城に匹敵した。

現代の感覚からすれば、命を賭けて戦った報酬が骨董品であったら、あなたは納得するのでしょうか? 現金やマンション、金(ゴールド)やダイヤモンド、至れり尽くせりの豪華な生活を望むのではないのでしょうか。

しかし、当時の武将たちは、喜び勇み名物茶器をありがたく頂戴します。なかには、信長に直訴してまで茶道具を賜りたいと渇望する武将までいたのです。

信長により、茶道具や茶会が政治の道具として用いられたことを「御茶湯御政道」(おちゃのゆごせいどう・豊臣秀吉の言葉)と呼ぶことがあります。はたして、なぜ御茶湯御政道が成り立ったのでしょうか。

ゆるし茶湯


信長からの恩賞として茶器(御道具)を下賜されたとしても、家臣は容易に茶会を開くことはできません。信長から頂いた名だたる茶器をつかい、茶会(御茶之湯)を開くにも、信長の許可が必要だったのです。

つまり、信長は(1)「茶器を褒美であげる」(2)「褒美の茶器を使い茶会を開くことを許す」という二つの権威を保持していたのです。

茶器を下賜された武将はたくさんいましたが、茶会を開くことができた武将は極めて少ない。織田信忠、明智光秀、佐久間信栄、野間長前、村井貞勝の6名しか「御茶之湯」を開くことが許されていない。

秀吉は、「御茶之湯」の開催を許されたとき、涙を流して感激したと云われています。権威ある「御茶之湯」で亭主を務めることは、織田政権内で高い地位にいることを誇示することができるからです。織田政権内の権力構造(ヒエラルキー)が、「ゆるし茶湯」という形式で反映されていたのです。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・竹本千鶴『織豊期の茶会と政治』(思文閣出版、 2006年)