blog173.jpgFrom: 岡崎 匡史
研究室より

第二次世界大戦中、ナチスドイツの迫害からユダヤ難民を救った杉原千畝(1900〜1986)。

リトアニアの在カナウス日本領事館に勤務していた杉原は、ユダヤ人のために大量のビザ(日本の通過査証)を発行したことで知られる。

杉原千畝に関しては、西先生の歴史講座「満州国とユダヤ人計画」で詳細に取り上げられております。杉原の数奇な人生を知りたい方は、ぜひ、ご覧になってください。

杉原千畝の業績が世に広まってゆくにつれ、日本において杉原を顕彰する施設が増えてきました。

記念館


杉原千畝の功績を称える記念館は世界と日本で建設されています。銅像やモニュメントも紹介しきれないくらいある。

・「杉原記念館」(リトアニア・カナウス)
リトアニアの旧日本領事館跡に設置された記念館。私もまだ足を運ぶ機会に恵まれておりません。新型コロナの影響で、運営が維持できるのか瀬戸際の状態ですが、いつか訪問してみたい記念館です。

・「杉原千畝 センポ・ミュージアム」(東京都中央区)
2019年、東京駅の近くに開館されたばかりの記念館。日本に帰国したら、立ち寄ってみたいと思っていましたが、いまだチャンスに恵まれず。

・「杉原千畝記念館」(岐阜県八百津町)
杉原千畝の出身地は、岐阜県の八百津町(やおつちょう)。彼の功績を讃えるため記念公園と記念館が併設されている。この記念館にもいつか行きたい。

・「人道の港 敦賀ムゼウム」(福井県敦賀市)
私が訪れたことがあるのは「人道の港 敦賀ムゼウム」。福井県の敦賀(つるが)は、神戸や横浜と同じように港町として栄えた。松前貿易の中継地でもあり、関西への玄関口。そして、古くから中国大陸やロシアからの門戸として発展してきた。

ユダヤ人難民がはじめて日本の土を踏んだのが敦賀でした。それを記念して「ムゼウム」(ポーランド語で「資料館」)が建てられている。迫害をうけたユダヤ人は、カナウス → モスクワ → ハバロフスク → ウラジオストク → 敦賀 → 神戸/横浜 → バンクーバー/サンフランシスコ/シドニーへと世界各地に避難していったのです。

ユダヤ人難民足跡調査


歴史の調査をするとき、記念館とお墓参りは欠かせません。お墓参りは慰霊という意味もありますが、戸籍名や戒名や生没年を確認するためでもあります。Wikipediaや人物辞典でさえも、記載が間違っている可能性があるからです。

記念館の展示資料を見ることも大事ですが、書店で出回らない非売品の本や資料集が販売されていないか気を配っています。流通していても、なかなか本の存在に気づかないものです。

「敦賀ムゼウム」を訪れたとき『人道の港 敦賀』という調査報告書が目にとまりました。直感的に、購入しても損はない報告書だと感じました。ISBNコードの記載もなかったので、少数部数の発行でしょう。このような本は、ネット書店や都内の大手書店では流通しないので、取り寄せると手間がかかります。

報告書を手にとってみると、ユダヤ人難民を目撃した市民の証言を聞き取り調査をしたものでした。オーラル・ヒストリー(口述歴史)は記憶や主観に基づいているので、読むときに注意が必要です。しかし、重要な記述ばかりですので、引用紹介して筆を擱きたいと思います。


証言1. 
  その当時、敦賀港へ入ってくる外国人は皆りっぱな服を着ていたので、哀れな感じがした。ユダヤ人は男性は黒い服を着ていて、女性は赤い服を着ていた。小学生くらいの子供もいて、人力車には2〜3人の老人が乗っていた・・・
  ユダヤ人が歩いているときは警察官が見張っていたが、厳しいものではなく反対側を一緒に歩いていた。警察官の人数もチラリチラリで、ユダヤ人もブラブラ歩いていた。


証言2. 
  昭和16年の早春ではなかろうか。直接見たわけではないが、当時大内町(現元町)にあった銭湯の「朝日湯」が、一般入浴営業を一日だけ休業してユダヤ人難民に浴場を無料で提供したことは事実である。

証言3. 
  私が15〜16歳(昭和15〜16年)ころだと思います。父の話では、まだ夜明け前の午前4時過ぎに、家の玄関をドンドンと叩く音に目を覚まし、何事かと恐る恐る戸を開けると大きな外人の男3人が立っていた。どこの国の人か知りませんが、両手をほほに当てて寝させて欲しいと言う仕草をしていた。要件は分かりましたが、家は狭くて泊められないので、当時大きな門のあった永賞寺を指して、そこで泊めてもらうようにお願いすることを教えました。
  また、母が大きなおにぎりを作ってあげたそうです。その後、どうなったのかについては聞いていませんし、その人達がユダヤ人であったかどうかも私にははっきりわかりません。父がどの外人とどんな話をしたかは聞いていません。

証言4. 
  国鉄敦賀駅に勤務していた昭和15年9月頃から、ウラジオストクからの連絡船が敦賀港に入港するたびに、敦賀駅はユダヤ人であふれ、案内人は苦労していた。彼らは神戸、横浜と2つのグループに分かれて、米原で乗り換えて行ったようだ。しかし、彼らの乗車のための専用客車の増結はなかった。一般人、日本人乗客と混じってそれぞれの目的地へ行ったようだ。

証言5. 
  実家は駅前で時計・貴金属を扱う商売をしていました。港に船が着くたびに、着の身着のままユダヤ人が店にきて両手で空の財布を広げ、食べ物を食べる仕草をして、身につけている時計や指輪を「ハウ・マッチ」と言って買って欲しいとよく来ました。父は大学を出ていて、英語が少しは話せたのですが、訛りが強いのか筆談で話をしていました。そして沢山の時計や指輪を買っていました。ユダヤ人はそのお金を持って駅前のうどん屋で食事をしていました。
  また、父はユダヤ人に店にある食べ物を気の毒やと言ってよくあげていました。私も持っていたふかし芋をあげたこともあります。駅前には沢山の荷物を持ったユダヤ人もいて、同じユダヤでも貧富の差があることを感じました。さらに赤ちゃんをベビーカーのような物に乗せていたのを見ました。駅前には港にあった両替店も出張していました。初めのうちは市内を歩かせていたようですが、戦争が近くなると港から駅まで列車(外が見えないようによろい戸を閉めて)乗せていたようです。
  その他にも沢山の着のみ着のままのユダヤ人の大人が歩きながらリンゴをかじり、となりの人に与えていました。当時は外で物を食べることが大変行儀が悪いことだったので、よく覚えています。女の人もいましたが派手な格好はしていませんでした。子供は少なかったようですが記憶にありません。父も私も当時、店に来る外国人はユダヤ人ということは分かっていました。



ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・日本海地誌調査研究会『人道の港 敦賀ー命のビザで敦賀に上陸したユダヤ難民足跡調査報告』(日本海地誌調査研究会 敦賀上陸ユダヤ難民足跡調査プロジェクトチーム、2007年)