マッカーサーの屈辱


フィリピン・バターン半島は、マッカーサーにとって運命的な場所であった。ここで彼は、日本陸軍(14軍)の司令官本間雅晴(ほんま・まさはる)中将に攻められ、その生涯で初の敗北を味わわされた。

1942(昭和17)年1月2日、日本軍、マニラを占領する。同9日、バターン半島へ猛攻撃をかける。

ルーズベルト大統領は、1942年2月22日、マッカーサーにコレヒドール島から脱出せよとの命令を出すが、彼は勇敢な部下たちを見捨てることはできないと拒否する。彼の部下たちが説得し、マッカーサーは3月11日、高速の魚雷艇で家族とオーストラリアのメルボルンまで逃げた。

誇り高き軍人マッカーサーにとって、この敵前「逃亡」は、耐え難き屈辱であった。

4月9日、バターン半島のアメリカ軍は降伏した。アメリカ兵捕虜は7万6000人。

日本軍は、彼等をカバナトアン収容所まで90キロ歩かせた。「死の行進」と呼ばれ、5000名が死に、収容所でも多数の捕虜が死んだ。

屈辱につぐ屈辱


マッカーサーの痛恨の屈辱はまだ続く。

本間中将はバターン半島を治めた後、全力を、これまたマニラ湾にあるコレヒドール島に向ける。コレヒドールは僅か5平方キロメートルの要塞だ。

ここで、マッカーサーの友人、ジョナサン・M・ウェインライト将軍に率いられたアメリカ・フィリピン混合部隊1万余人が、マッカーサー脱出後、フィリピンを死守せんと、5カ月間、300回にも亘る零戦及び大型爆撃機の猛威に曝されながらも、勇敢に立ち向かい、日本帝国のフィリピン征服の時間表を狂わす。

だが、完全に包囲され、武器、弾薬、食糧尽き、ウェインライトと1万人の将兵は5月6日、投降した。

1944年10月9日、「マレーの虎」とアメリカ軍に恐れられていた山下奉文大将が第14軍司令官としてマニラに入り、フィリピン全島の制圧に取り掛かった。フィリピン人ゲリラは執拗な攻撃を日本軍に加え、フィリピン占領は山下大将にとっても容易な任務ではなかった。

マッカーサーの復讐


1945年2月4日、マッカーサーはマニラを取り返した。有名な「I shall return」の通りに。

捕虜になり、幽霊のように痩せ細り、自分では立っていられないほど衰弱した友人ウェインライトや部下たちを助け出した。

バターンは、マッカーサーにとって、屈辱と復讐の象徴だ。

1945年12月7日午後2時(マニラ時間)、アメリカ軍法会議は、山下奉文大将に死刑を宣告した。毅然たる山下は、「余は、軍法委員会の公正なる審理に感謝する」と言った。

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12月7日に死刑判決を言い渡したのは、偶然ではない。アメリカ軍にとって、その日は「真珠湾攻撃」の悪夢の日だ。

バターンの屈辱をも晴らす時でもある。

翌年2月23日、マニラで山下大将(60歳)は軍服、勲章を剥ぎ取られ、平服で絞首刑にされた。マッカーサーの命令である。