二度とアメリカに刃向かうな


だが、「なにはさておき、最も重要なことは、我が西海岸に将来脅威が及ばないように国家の安全を守ることである」とマッカーサーは真意を表明した。

この「国家の安全」が、アメリカの日本占領の最も重大な目的であった。事実、トルーマンは、マッカーサーに次のような指令「初期対日政策」を出している。

「日本が2度とアメリカにとって、世界の平和と安全にとって、脅威とならないようにする。......国連憲章の理想と原則に示されたアメリカの目的を支持する平和的で責任ある政府を樹立すること」。

日本をアメリカの属国にする決意の声明だ。

征服者の風格


占領中のマッカーサーは、「征服者の風格」という幻想にひどく侵されていたのではないか。例えば、国家の行事の場を除いては、彼は決して日本人と同席しなかった。1945年9月から1950年6月25日(朝鮮戦争開始)の間、彼が東京を離れたのはわずか2度である。

1度目は、1946年7月4日、フィリピンの独立記念式典に出席するため東京を離れた。2度目は、韓国(大韓民国)の成立の時、1948年8月15日、マッカーサー夫妻でソウルでの式典に出席した。韓国が、8月15日(日本降伏の日)を建国の日に選んだのは、偶然ではない。韓国では、この日を「解放記念日」と呼ぶ。この式典で、マッカーサーは祝辞を述べる。


「過去40年間、私は諸君の愛国者達が外国勢力の抑圧的なきずなを断ち切ろうと努力して来たことを称愛の念をもって見守ってきた」(原文のまま。『朝日新聞』1948年8月16日)


東京を離れたのが2回しかないどころか、1937(昭和12)年5月、ジーン夫人との結婚式にフィリピンからニューヨークに帰ってきた時を除いては、彼はアメリカの土を14年間も踏んでいない。

彼は広島と長崎を訪問しなかった。

彼は東京から離れて駐在しているアメリカ部隊を閲兵しようとしなかった。

自分の執務室に電話を引くことすら許さなかった。

アメリカの優れたジャーナリスト、ジョン・ガンサーによれば、「マッカーサー元帥は、自分の事務室では殆ど1回も電話を利用しなかったし、1人の秘書もおかず、演説も自分で書き、元帥宛の通信文も全部自分で読み、元帥宛の個人的な手紙も、自分以外のいかなる他人にも封を切らせなかった」。

東洋人の心理


マッカーサーは、日本人と殆(ほとん)ど会っていない。会うのは、天皇陛下、首相、外相、両院の議長ぐらいで、それも、公式の仕事上で必要な時だけに限られていた。

マッカーサーは、皇后陛下とも会ったことがない。マッカーサー夫人と令息アーサーは、天皇にも、皇后にも、皇太子にも会っていない。

マッカーサーは、雲上の人であった。

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マッカーサーが日本人と会おうとしなかったのは、自分は東洋人の心を完全に理解しており、東洋人は、力や権威で操った方が、より効果的に統治できる、と判断したからである。

トルーマンの特使で中国経済復興の命を受け、東京に立ち寄ったロックは、「元帥(マッカーサー)は、東洋人は劣等感に悩んでおり、それ故、戦争に勝てば、幼児的残虐性を剥き出し、敗ければ奴隷のように服従し、殺されようが、面倒を見てもらおうが、それを運命だとして、自らを征服者の手に委ねる、と語った。元帥は、この態度が日本中に広まることを望んでいない」とトルーマンに報告している。

この日本人観は、1945年10月、占領が始まったばかりの頃のものである。

彼の日本人観は、6年間の「東京生活」を通じて変わることはなかった。