教員たちは労働組合を結成


生きることに必死になっている教員たちは、1945年12月20日、文部、内務、大蔵の各大臣に対し要求を提出した。

⑴500パーセントの賃上げ

⑵教員が通勤し、職務を果たすのに必要な仕事着、地下足袋、雨具、自転車の支給

⑶教員用地の拡大と教員用住宅の確保

⑷大学教授から小学校教員に至るまで全教員の地位と給料を1つの基準で決定すること

⑸誰でも能力と経験に応じて最高の地位まで昇進できる機会が与えられること

⑹全教員の給料は国から支払われること

⑺教員は自分の地位を失うことなく、学校や他の機関で研修を受けられること。

食糧を確保するため、教員たちは全国的な労働組合を組織し始め、この動きは、戦後日本で最も行動的な組合へと発展してゆく。

GHQは、教員の政治団体や組合結成を民主主義の現れと読み奨励した。教員たちを完璧に統制していた文部省も、すぐさまGHQに従い、教員たちが組合を作るのは「望ましい」と言い、教員たちに1947年の総選挙では立候補するよう励ました。

しかし、現状は好転するどころか、さらに悪化していった。GHQ内部報告によれば、飢えで通勤途中に栄養失調で倒れる教師たちが出始めた。日本中で教員たちの辞職が急激に増え、「新生日本建設」にとって深刻な事態が起きたのは当然の成り行きだった。


食糧か学問か


大学生の受けた打撃も大きかった。政治顧問事務室付きのエマーソンは、学生たちと対談し、彼等の発言を内部メモに記し、ワシントンへも報告している。

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「殆どの学生たちは、体力の消耗を防ぐため日曜日には寝ている」「学生たちの誰1人として、日に2食以上食べていない。良書を読み、勉強し、政治運動に参加したいと思っていても、食物のことで頭が1杯で、本を読むなどの意欲もおきない」

「現在日本の国民の頭の中にあるのは、衣食住のことのみだ。民主主義について考える余裕はない。腹も十分満たされていないのに、民主主義への建設的な足取りを踏み出せるはずがない」

民間情報教育局(CIE)も同意見だった。「学生たちの窮状はひどいものだ。多くの学生たちは家で学問を続けるか、学校を止めてしまうか、どちらを選択するかを迫られている」。

1949(昭和24)年6月になっても、東京大学大学院生(スギ・マサタカ、生資料からの音訳)は、GHQに「勉強したいと思えば、食物か本かのつらい選択に苦しまなければならない」と手紙を書いた。