インフレ抑制


1949年2月1日、ドッジはロイヤル長官とともに東京に到着した。1カ月後、3月7日、彼は「ドッジ・ライン」と呼ばれる厳格なインフレ抑制措置を発表した。日本政府がそれを拒否することは許されなかった。

87.org.jpg

ロイヤル長官


ドッジは新聞声明でこれを明確にした。

「日本が毎年、アメリカから受け取る数億ドルにのぼる援助は、アメリカ国民お よび企業に課せられた税金からである。その税金は、アメリカの労働者の賃金、 企業と産業の利潤から支払われてきた。アメリカ市民は日本国民同様、税金を支 払うことを好まない」

4月4日、吉田首相は、ドッジ耐乏計画の持つ激しさを衆参両院で説明した。

国務省はその説明に満足し、「現在の経済危機を克服するために必要な避けがたい苦痛を説明する率直な努力」と評価した。この苦痛を伴う措置は、吉田内閣(自由党)を苦しめた。

それは、国務省が分析しているように、「ドッジ氏とESS(経済科学局長・マーカット少将)は、吉田に選挙公約の撤回、もしくは大幅な変更を強制した」からだ。

同じような「GHQの強制行為が、片山、芦田内閣崩壊の大きな原因となった」のだが、国務省は吉田首相が選挙公約(減税)を破ることについては、「吉田首相の地位と威信は、彼に取って代われる者がいないほど高かった」ので、心配していなかった。

陸軍省・国務省、共産主義を警戒


ドッジが日本の国家予算の健全化を進めている間、陸軍省と国務省は、日本へ「労働使節団」を派遣することを計画していた。

マッカーサーとドッジは、この計画に強く反対した。ロイヤル陸軍長官は、この使節団を日本へ送り、共産主義と闘うための「草の根」運動を始めさせるつもりだった。彼は共産主義が日本の労働運動の60パーセント以上を牛耳っていると信じていた。

占領日本から帰国し、国務省の極東局に配属されたマックス・W・ビショップも、「私が東京にいた時、GHQ内には共産主義に対し余りにも甘い無防備な考え方が蔓延っていた」と言った。

国務省内で、対共産党強硬派のビショップと柔軟派のエマーソンが激しく対立する。中国大陸が毛沢東に乗っ取られた時、エマーソンの負けが決定的となる。