対日政策の転換


ドッジは、1949年10月30日〜12月5日と、1950年10月7日〜12月4日の2度日本に戻って来た。

日本は再び明治初期を思い出させる「富国強兵」へと運命づけられていったのだが、アメリカの国防計画から独立したものではなく、日本列島はアメリカ軍の世界戦略のアジア基地として繰り込まれることになる。

日本の指導者たちは、ドッジ・ラインの意義を見逃さなかった。彼らは、日本がアメリカを必要としたように、アメリカも日本を必要としていることを確信した。

CIAは、1948年4月22日、国家安全保障会議で「日本の指導者たちは最近、明白に独立心を見せ始めてきた。これは、中国、朝鮮半島で米ソ関係がさらに悪化すると読み、アメリカが日本を東アジアの強力な砦にしたいと思っていることを彼らが理解していることを反映している」「日本は復興のためにアメリカから援助を最大に引きだすため、アメリカの弱みにつけ込んでくるだろう」と鋭く警告した。

マッカーサー vs アメリカ議会


アメリカ議会は、ドッジ・ラインが奇跡を生むだろうと期待していた。願望が現実化する前に、議会は対日援助額の削減を提案した。

1949年5月25日、陸軍省占領地域担当次官、トレイシー・S・ボルヒーズは、「議会が陸軍省の要求した予算を大幅に削減しようとしております」とマッカーサーに伝え、この削減が「占領政策にひどい悪影響」を齎すことになることを議員に認識させるためのあらゆる努力をする、と確約した。

対日援助費をめぐって、アメリカ政府から毎年強い圧迫を受け、怒り心頭に発していたマッカーサーは、議会に次のように返答した。

「ドッジ使節団の厳しい財政安定化計画は、アメリカが経済復興基金を日本に与えてやるという約束の上に基づいている」「もし、この約束が破られるようなことがあれば、全ての復興計画は事実上崩壊したのも同然となろう」

アメリカ議会はマッカーサーの抗議を認め、マッカーサーの原案を通した。


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