鳩山一郎の談判



日本共産党の爆発的な政治活動は、日本の保守層の恐怖を掻き立てた。

日本最大の政党、自由党の党首で、首相確実と思われていた鳩山一郎は、1945年11月25日、秘書を伴って、GHQ民政局を訪ね、自分の考えを説明した。アチソン政治顧問も出席した。

GHQ側は鳩山を「尋問した」と言っている。

鳩山「個人の自由は保証されねばならない」

民政局「では、なぜあなたは、公然と共産主義者の自由を否定するのか」

鳩山「日本の共産党は、アメリカやイギリスの共産主義者とは違って、非日本的な政党で外国勢力の手先となり、しかも外国から活動資金をもらっている」「これらの連中は、何年も刑務所に入っていて、ごく最近出てきたばかりなのに、すでに、活発な政治活動を行なっている。50万円もする印刷機も買い込んだ。どこからそんな大金を手に入れたのか!ソ連からカネをもらっているのに違いない」

「日本人は、すぐ興奮し、情緒不安定で移り気な国民だ。1つの方向に動きだすと、真っしぐらに進む傾向がある。いま日本人は、急速かつ急激に左に向かう危険に直面している。また日本人の国民性として、いったん権力の座につくと、権力を持たない人たちの人権を否定し、弾圧する傾向がある。だから日本では〝多数による独裁〟に対して何らかの歯どめを設ける必要がある」

鳩山自身、「権力の座についたものが、権力のないものを弾圧する日本の国民性」を良く知っていた。彼は文相時代、1932(昭和7)年から33年にかけ、政府にとって都合の悪い教授たちを京都帝大から追放した中心人物だった。


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滝川幸辰教授の罷免に関する事件である。GHQ・民政局は、この事実を知っている。エマーソンも、この事件につき国務長官に報告している。


公職追放処分


開放的に喋った鳩山を、GHQは「信念や指導力に欠け、政治家というよりも政治屋。口数は多いが、話す内容は論理性に欠ける」と酷評している。

鳩山は「公職追放」になるのではないか、という噂が広まりだした時、「僕は絶対大丈夫だ」と言っていた。マッカーサーは、鳩山が首相に選ばれる前日(1946年5月4日)、彼を公職追放処分にした。

鳩山一郎は、東京帝大卒で、弁護士をし、1915(大正4)年、衆議院議員となる。当選15回。1931(昭和6)年の犬養毅内閣、1932年の斎藤実内閣の文相となる。戦時中は軍部に対抗した。勇気のある行動であった。

終戦直後、1945年11月に日本自由党を結成するが、公職追放中に首相の座を吉田に奪われる。吉田と犬猿の仲になる。

1954(昭和29)年12月、首相になり、1956年12月第3次鳩山内閣まで継続する。