吉田首相の確信



吉田首相は、マッカーサーに再考を促すのをしばらく待った。

日本共産党の精力的な宣伝工作が高まるにつれ、マッカーサーも窮地に陥って、再考せざるをえなくなることを確信していたからだ。

1948(昭和23)年8月6日、対ソ連との冷戦が険悪になり、マッカーサーが日本共産党の非合法化を真剣に検討していた時、吉田は「共産党に対して素早く、効果的な行動をとれるように、日本の警察と占領軍のより緊密な連携」の必要があり、その為に、警察権力を強化したいと提案し、マッカーサーの許可を求めた。

2日後の8月8日、マッカーサーは、「私の支持の下、現在の警察は占領軍部隊の介入なしで、いかなる騒乱にも対抗できる能力を持っている」と吉田の要請を拒否した。


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焦りと当惑


日毎、精力的になる共産党の活動は、日本の民主化にとって厳しい試練となってきた。占領軍を「解放軍」と絶賛した日本共産党は、アメリカ政府とマッカーサーが待ち望んでいた偶像破壊者であり、日本帝国の「要」である天皇および皇室に猛攻撃をし続けた。

だがワシントンも、東京のマッカーサー司令部も、日本で共産主義を助長していることに焦りと当惑を感じ始めていた。

このジレンマは、マッカーサーが日本の保守層の熱烈な支援を得て実行した「レッドパージ」で、共産主義者たちを公職から追放するまで続いた。

「レッドパージ」は、日本国民に戦前の危険思想に対する弾圧を思い起こさせ、共産主義は再び、殉教のイデオロギーとなってゆく。