吉田・自由党の敗退


一つ余談。

日本の憲法は、アメリカの制度と同じように、最高裁判所に一切の法律を合憲か否かを決定する権限を与えている。しかし、「国会は国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と憲法が規定しているので、司法権優位と立法権優位の間で摩擦が生じる恐れもある。

最高裁判事15名の指名に関して、マッカーサーと吉田首相の間でやりとりがあった。

1947(昭和22)年1月31日、マッカーサーは翌2月1日に予定されていたゼネストの中止を命じた。2月2日、彼は吉田に「総選挙の時期が来たものと信ずる。国民の意思の民主的表現をとりつける必要がある」と命令した。

マッカーサーは吉田内閣が、国民の信頼を失ったと感知したのだ。

4月20日、参議院(貴族院にとって代わった)の初選挙が行なわれた。衆議院選挙が4月25日につづき、吉田の自由党は決定的に支持を失った。吉田は敗れることを知っていた。それ故、首相の地位を離れる前に、最高裁が自分の陣営に留まれるよう策を練った。


最高裁人事の行方


参議院選挙が終わり、衆議院選挙の2日前の4月23日、彼はマッカーサーに書簡を送り、

「我が親愛なる元帥様、私は5月3日に最高裁判所長官と14名の判事を任命し発表できると思いますので、この機会に前もって閣下にお伝えしたい」

と申し出た。

5月3日は憲法施行の日であった。マッカーサーは即座に吉田の策をはねつけた。

「私は初の最高裁判所人事は、新憲法によって選ばれた内閣によって任命されるべきだと信じる。あなたの内閣によって任命された人物と最終的にはほとんど変わらないだろうが、日本の世論ばかりでなく、連合国全体の世論に対して与える印象は全く変わったものとなるだろう」


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片山内閣

マッカーサーは、2日後の衆院選で社会党が政権を取り、片山哲内閣が誕生するとは思ってもみなかったのだろう。