文相の追放


『讀賣報知』は、

「全く呆れ返ってものがいえない。その訓令の内容を見ても神懸りに囚われた時代錯誤に置かれていて、てんで新年の詔書の意義さえ理解していないものだ。......こんな馬鹿げた訓令を出されたんではやり切れないと思う」

と怒り狂っている。

日本政府(首相、文相)が声を合わせて「教育勅語」の不滅を説き続けたことが、ついにGHQの不安を掻き立て、この文書に対する強い疑惑を植え付けた。

マッカーサーは、前田文相を公職追放にする。

ご真影の行方


やっと、1946年7月10日、CIE(民間情報教育局)の教育部の語学将校スコット・ジョージ中尉と、宗教部のW・K・バンスとが、「教育勅語」と学校に掲げられている天皇陛下のご真影について話し合った。

ジョージは、教育部長マーク・T・オア中佐に、

「学校が天皇の写真を展示することに反対しない。それが宗教的崇拝の対象として扱われるのでない限り......」

と意見を書き出している。

アメリカ側が話し合っている時、日本政府は天皇の新しいご真影が準備されていると発表した。軍服姿ではなく、平服姿の天皇になる。


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ジョージは「新しいものが学校の壁にかけられるだろう」と語った。

即ち、平服姿の天皇に問題はないという。しかし、「現在の教育勅語は新しい日本の基礎として適当な文章ではない」「新しい教育勅語を考慮しなければならない。日本国民がそれを求めるからだ」とオア部長に勧告している。


日本教育改革の証人


私は、オア氏にマッカーサー記念図書館でのシンポジウムで二度会った。とても気さくな人だ。初めて会った時、オア氏は、

「Thank you very much for making me famous !(私を有名にして頂き、とても感謝しています)」

と言われた。

それは、私がスタンフォード大学フーバー研究所出版から出した Unconditional Democracy のことを言っているのであって、私がその時まで埋もれていた教育改革文書を発掘し、引用した折、「オア」の名前がたびたび出てきたからだ。

その時まで、日本教育改革に携わったアメリカ軍人たちの個人名および彼等の書いたメモは殆ど知られていなかった。

オアは終戦直後、1945年10月にCIEに配属され、翌年6月から1949(昭和24)年2月まで教育部長を務めた。帰国後、ノース・カロライナ大学で博士号を取得する。