教育指令第一号


マッカーサーは、教育指令第一号で、前田文相に、職業軍人および軍国主義を鼓吹した者を学校から追い出し、占領政策に反対する教師を馘にせよ、軍国主義に反対して解任された教師を直ちに復活させるべし、と厳命し、

「この命令の精神と条文に従わない者には個人的な責任を負わせる」

と言った。

前田文相は、「危険思想」を理由に辞めさせられた大学教授たちを復職させた。


大内兵衛


例えば、1945年11月4日、東京帝国大学の経済学部教授大内兵衛と7名の教授を復職させた。

大内らは、社会主義、共産主義と関連した諸事件に連座し、1938(昭和13)年から休職していた。

『讀賣報知』(11月6日)は、大内たちを「学園に返り咲く〝粛学の嵐〟犠牲者」と呼び、大きく報道した。

大内兵衛は、1950(昭和25)年から1959年まで法政大学総長を務める。


大山郁夫


復帰で最も劇的だったのは、『朝日新聞』(1947年10月24日)に「大山氏故国に帰る」と報道された大山郁夫の復職であろう。

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大山郁夫


早稲田大学政経学部を卒業後、早大の講師となった大山は、1910(明治43)年から1914(大正3)年までアメリカとドイツに留学した。

帰国後、早大教授となり、「大正デモクラシー」の論客となったが、1925(大正15)年労働農民党委員長に就任したため、1927(昭和2)年早大を辞任させられた。

1931年の満洲事変の翌年、柳子夫人と共にアメリカへ亡命した。

大山が帰国する前、いや日米戦争がまだ終わっていない1945年5月に、ジョン・K・エマーソンは、イリノイ州のノースウェスタン大学で大山と対談し、国務省内メモ(5月24日付)で、

「大山教授は、今アメリカに在住している日本人の中で最も卓越した素晴らしい人物である」

と褒めちぎった。