皇居参拝の擁護



学校教育局長の田中耕太郎は、マッカーサーの「神道廃止令」について、「学童や学生は今後天皇を神として崇めてはいけない。しかし、統治者としての天皇に畏敬の念を持つことは、かまわない」と全国の学校に伝えた。

その後、文部省は府県知事に「神社参拝の禁止には皇居参拝は含まれていない」と訓令した。

生徒や学生たちは、整列して皇居の方角に向けて最敬礼(遥拝)をしてもよいと言っている。

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皇居と二重橋


 

こうした日本政府の発言は、マッカーサーの民主改革に意識的に挑戦しているものと受け取られ、彼の態度はより一層厳しくなった。


政治活動の奨励


GHQが苛立っていることに気付いた安倍能成文相は、1946年1月21日、学生や教師たちに政治活動を行ない、政治団体に加入してもよいと通達を出した。

驚くべき内容である。

⑴ 「教職員、学生生徒の政治上の結社加入、および衆議院立候補とその選挙運動は当然差支えない、むしろ積極的に明るく強く進み、今回の総選挙のよき推進力、清涼剤になること」

⑵ 「しかし、それぞれの本務は決して逸脱することなく、常に公正清純であること、学徒が勉学を擲って政治運動に狂奔したり、教師が教え子を利用したりすることは本道に悖るものである」

⑶ 「......授業時間中は一切の政談演説は禁止せねばならぬ。授業中以外ならばたとえ教室内でも校庭でも討議、演説は自由である」


追放計画


文部省は、マッカーサーの言葉を鸚鵡返しに言っていただけだが、マッカーサーは教師の大量追放を計画していた。

マッカーサーの教育指令が出た翌日、1945年10月23日、CIE教育部のロバート・キング・ホール中尉は、教師の資格審査に関する草案作りを命じられた。

6日後、ホール中尉は、六回目の最終草案をCIE局長ケン・ダイク准将に提出した。ダイクはそれをマッカーサーに見せ、承認を得た。

翌日、マッカーサーは日本政府に「教員及び教育関係官の検査、除外、認可」指令を出し、軍国主義に少しでも関係があった教師全員を追放せよと命じた。