乱立する新制大学


教育使節団は、「高等教育における日本の保守主義は打破することができる。世界の福祉、日本の福祉のために、そうするべきだ」と勧告し、「今日、帝国大学の卒業生に与えられている優遇措置」は排除されなければならないと断言した。

この解決案として教育使節団は、少人数のためだけの高等教育を排し、できるだけ多くの青年男女を教育するため、大学と専門学校の数を増やすことを勧めた。

学校教育法の改正で、1948年3月31日、4年制の大学が新設された。大学から政府を締め出すために、同法は学長に強力な決定権を与え、また、教授会の権限も大幅に広げられた。

それまで存在した249の高等教育機関が178の新たな「新制大学」として統合された。各都道府県に「駅弁大学」(大宅壮一の造語)と言われた新設大学が誕生した。


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大宅壮一


誤算


外交局のリチャード・フィンは、1949(昭和24)年7月、「六帝国大学が君臨していた戦前の日本の大学制度の独裁的状態は、200校を超えるカレッジやユニバーシティの設立によって、急速に変えられるであろう」と甘い見通しをした。

1945年の終戦当時、大学数は48校、教授陣6888人、学生数9万8825人であった。

占領が終結した1952年には、大学数は220校、教授陣3万6978人、学生数39万9513人に増えた。短期大学は、205校、教授陣8328人、学生数5万3230人になった。

目が眩むほどの急増は、旧帝国大学の権力と威信を損なうどころか、金不足、人材不足の現状では、旧帝国大学の優位をより一層強めるのに役立った。