権力剥奪

 


教育委員会法は、文部省の行政権を剥奪した。

CIE教育部次長モンタ・L・オズボーンが理解していたように、「都道府県および市町村の委員会は、カリキュラムに関して絶対権限を持つ」ものだった。

しかし、アメリカ側の期待は満たされなかった。地方分権どころか、地方教育委員会は、文部省発行の「学習指導要領」を文字通り教委への指令と受け取って、鵜呑みにしていた。

トレイナーは、「学習指導要領は強制されるべきものではない。......各学校は、学習指導要領を右から左へ捨ててしまっても構わない」との指令を文部省から出させた。

「これは、日本で殊更重大なことである」とニュージェント局長も認め、ルーミスに、「あらゆる努力を払って、文部省が全国向けのカリキュラムを作成するのを阻止しなければならない。文部省がカリキュラムについて責任を持っているという考えなど、決して許してはならない」と述べている。



財源不足


しかし、教育委員会法は、最初から廃案になったも同然であった。

その理由の一つは、財源不足。

マッカーサーの経済引き締めが利きすぎ、全国民がコメを求めて争っている時に、中央、地方を問わず、教育に回す金は最後に出され、切られる場合は、真っ先に切られた。

銭がない上に、各地域とも行政に手腕を振るえる者がいなかった。同時に、9年間に延長された義務教育のため、財源と人材が一層不足した。

外交局付きのフィンは、この有名無実の教育委員会法の現状を見て、「小・中学校には、困難な過渡期を乗り切るのに必要な手引きもないので、この問題の解決はほど遠い」とシーボルドに報告している。


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戦後の闇市の様子



村長の自殺


新中学校校舎の建設用資金は結局集まらず、自殺した村長もいた。極端な例だが、村長の自殺は教育行政に携わる多くの人々の心理状態を表わしている。

教育予算が確保できないために100人以上の市町村長は辞任し、25人以上の市町村長や議員たちがリコールされた。

続いて起きたことは、市町村の教育委員会が、都道府県教育委員から行政指導を仰ぎ、その都道府県は、文部省に指導を仰ぎ、何とか貴重な予算を回してもらうため、行政権力を返上したのだ。昔ながらの陳情が復活した。

いっそう悪いことに、1949(昭和24)年に実施された耐乏政策「ドッジ・ライン」によって、学校建設費など喉から手の出るほど必要な金は切られ、地方の教育委員会の独立は完璧に崩壊した。