マッカーサーの欺瞞


マッカーサーは、1949年11月末になっても、日本はいかなる軍事力も持つ必要はない、と断言していたが、突然、1950年元日、憲法第9条の新解釈を提唱した。

日本は、アジアで猛威を揮っている危険極まりない共産主義の侵蝕に自衛力で対決しなければならない、と彼は言った。

このマッカーサー発言の直後、1月6日、コミンフォルム(モスクワに本部を持つ世界共産党本部)は、日本で最も有名な共産主義者である野坂参三の「平和革命論」を「帝国主義を美化するもの」と厳しい批判をした。

295.png


野坂の野望


野坂の考えは、共産主義者は通常の議会政治によっても政府を支配することができ、社会主義革命も占領下でも実現可能であるというものであった。

モスクワに叱られて、野坂は「改心」した。

吉田は、この時から日本共産党は「暴力革命」を企て始めた、と言明した。

吉田首相が、共産党は暴力革命を企てた、と警戒し始めたのには理由があった。1949年の夏、労使闘争で戦争状態にあった国鉄で、鉄道事故が連続で3件も起こり、3件とも迷宮入りである。



国鉄三大事件


(1)「下山事件」 7月5日、初代国鉄総裁下山定則が出勤途中、行方不明になり、翌朝、東京郊外の綾瀬駅附近の線路上で、バラバラの轢死体となって発見された。「自殺か他殺か」。日本政府は、「他殺」と信じた。この年の2月に来日したジョセフ・ドッジが、日本経済の建直し政策で、労働者の大量解雇を勧告した。60万人の職員を抱えていた国鉄は、9万5000人の馘切りを通告していた。

(2)「三鷹事件」 7月12日、国鉄は第2次馘切り6万3000人を決行した。3日後、午後9時24分、無人電車が中央線3鷹駅構内の車庫から暴走し、改札口に突っ込み、民家をも壊した。死者、6名。吉田首相は、共産党の仕業だと言った。

(3)「松川事件」 8月17日、午前3時9分、東北本線の旅客列車が、松川駅近くで脱線し、機関士ら3人が即死。これも、東芝の松川工場が、1万4000人の解雇に反対ストを実行しようとしていた日に起こった。

これら「三大事件」は、共産党とそれに指導された労働組合の凶暴さを見せつけるものとして、日本国民に宣伝された。

政府は、労働組合の指導者たちを次々に逮捕した。