吉田の手紙


平和条約の本文は、1951年7月13日、日本で公表された。

「この喜ばしい日に」と吉田首相は、ニューヨーク最高のホテルとして有名なウォルドルフ・アストリアを宿舎としていたマッカーサーに手紙を書き、

「私は、私自身と日本政府の深い感謝の念を表明したいと思います。私は、直接あなたに会って感謝を申し述べられないのを非常に残念に思います」

と述べた。


返答


8月20日、マッカーサーは、吉田首相に五頁に及ぶ電報を送った。

「この平和条約で、私は本当に測り知れない個人的満足を感じている」

「この平和条約で日本は、自由を破壊するために陰謀を企んだり、武力を用いたりする国際共産主義者の邪悪な軍を追い払うため、自由世界と堅い不滅の抵抗を示すだろう」

電報の残りは、「民主主義原則」に関する彼の説教で、吉田首相が過去六年間にいつも聞かされていたものであった。

「この方針を忠実に守り続けよ」と彼は、「マッカーサー教室の優等生」を励ました。


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遠ざけられた老兵



サンフランシスコ平和会議で、マッカーサーを「儀式の司会者」にしようという提案があったが、アチソン国務長官は、大統領に解任された者がこの重要な儀式に出席するのは良くないと考えた。トルーマンもそれに「異議なし」である。

「太平洋のシーザー」と呼ばれた偉大な軍人は、己が必死で闘い、勝ち取った勝利の最後の幕引きである世界の舞台に参列し、世界からの栄光と感謝の喝采を浴びたかっただろう。

また、勇敢な敵、日本帝国を友好国として歓迎する美しい儀式に出席したかったことは疑う余地もない。トルーマン大統領に願い出るのは、マッカーサー自身の自尊心が許さない。

寂しかったろう。


ミズーリの強情者


しかし、トルーマンの了見の狭さに驚いたアメリカ国民は、無数の手紙や電報をホワイト・ハウスに送り、ハリー・トルーマンに再考を促した。一例を挙げる。

「ハリーよ、よく聞け。この頑固なミズーリの強情者め。どうして、お前は日本との平和会議で老マッカーサー元帥を出席させないのか。彼は、誰よりもこの件に貢献したではないか。ハリー、彼を任命しろ、そうすれば我々はお前に惚れ直す。ハリー、彼を参加させなければ、1952年11月の大統領選挙は大変難しいものになるぞ。敬具」

トルーマン、再考せず。