blog201.jpgFrom: 岡崎 匡史
研究室より

1582(天正10)年、織田信長が本能寺で謎の死を遂げる。

その頃、17の大名はキリスト教を信仰し、支配地域の領民を強制的にキリスト教に改宗させていた。

洗礼を受けたもの15万人、設立された教会数は200を超えた。

ローマ教会は仏教祭儀の要素を取り入れ「マリア観音像」を拝ませることで、日本人が仏教的な考えを捨てることなくキリスト教を浸透させることまで試みた。

伴天連追放令


豊臣秀吉(1537〜1598)が天下を治めるが、当初、秀吉はキリスト教にそれほど反感を持っていなかった。

秀吉は、「異なる習慣と純粋な魂をもつ神父は、大阪の僧侶たちよりも善人である。お前たちの説く戒律に私は満足した。私はキリスト教徒になることに問題はない。ただ一人の女性しか妻にできないことが問題である」という態度を示していた。

しかし、秀吉はキリシタンに疑いの目を向けるようになる。1587(天正15)年6月19日、秀吉は「伴天連追放令」を発布した。


一、日本は神国であるのに、キリシタン国から邪法を伝えたのは、はなはだけしからぬ。

一、かれらが諸国の人民を帰依させ、神社・仏閣を打ち破らせたのは前代未聞のことである。領主たちは、その土地や知行を一時的に預かっているのであるから、そのつもりで天下の法律を相守り、下々にいたるまで勝手な振舞いがあってはならぬ。

一、伴天連は、その知識をもって自由に信者を獲得してもよいと考えているが、右のとおり、日本の仏法を破壊するもので、まことにけしからぬ。そこで伴天連は日本の地に置かないことにするから、今日から二十日のあいだに支度して帰国すべきである。この期間に伴天連に危害をくわえるようなものがあれば処罰されるであろう。

一、黒船は商売のためにくるのであるから別である。今後とも、長い年月貿易をやってもよい。

一、今後、仏法のさまたげをしないものは、商人でもなんでもキリシタン国から勝手にやってきてもよいから、そのつもりでおれ(註:「伴天連追放令」は数種類ある)。


秀吉は「日本は神国であるのに、キリシタン国から邪法を伝えたのは、はなはだけしからぬ」。それ故、邪教の宣教師は「二十日のあいだに支度して帰国すべき」と命じた。

サン・フェリペ号


秀吉が「伴天連追放令」を発布した理由は諸説ある。

1596(慶長1)年10月19日、スペイン船「サン・フェリペ号」が土佐浦戸に漂着。その際に、水先案内人フランシスコ・デ・サンダが秀吉の側近である増田長盛(ました ながもり・1545〜1615)に世界地図を見せてスペイン領土の広さを自慢した。

長盛は、なぜスペインは広大な領土を獲得できるのかと尋ねた。サンダの返答は、「わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目ざす国土を征服する」というものだった。

この話が長盛から秀吉に伝わり、秀吉のキリシタンに対する不信につながったといわれている。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・ジョン M.L.ヤング『宣教師が観た天皇制とキリスト教』(燦葉出版社、2005年)
・朴哲『グレゴリオ・デ・セスペデス』谷口智子訳(春風社、2013年)
・岩生成一『日本の歴史14 鎖国』(中央公論社、1966年)
・安野眞幸『バテレン追放令』(1989年、日本エディタースクール出版部)