blog203.jpgFrom: 岡崎 匡史
研究室より

豊臣秀吉の「伴天連追放令」の背景には、「南蛮貿易」という世界情勢があった。

南蛮貿易とは、「ポルトガル人が日本の銀を中国へ運び、その逆に中国から生糸、絹織物、漢方薬の材料や東南アジア産の香料、香木等の多様な商品をもたらした仲介貿易」である。

近年の研究では、南蛮貿易による商品が議論の的となっている。中国から日本への商船は、大量の中国産の品物が積み荷されている。日本が代価の銀を支払っても、マカオへの帰り道に船の重量が軽くなる。そのため、船を安定させるバラストとして労働者、さらには男女の奴隷を運んだ可能性が高いと論じられている。  

澳門


交易の中心地は、1517年にポルトガル人が中国大陸の南岸に来航した澳門(マカオ)。1858年の「天津条約」により、マカオは1999年までポルトガルの植民地に甘んじる。

マカオで活発に奴隷交易が行われていた時期を、第一線の研究者であるルシオ・デ・ソウザは三つに分類している。


・中国人奴隷が主たる時期:中国人が中国沿岸地域で捕えられ、日本や中国で交易するポルトガル人に売却される。

・日本人奴隷が主たる時期:1570年頃に始まり、数多くの禁令にもかかわらず1592年まで拡大を続ける。

・朝鮮人奴隷が主たる時期:秀吉の軍事遠征(1592〜1598)の結果、朝鮮人奴隷が日本人奴隷に取って代わる。


豊臣秀吉が「伴天連追放令」を出したのは、「日本人奴隷が主たる時期」の1587(天正15)年である。1580年以降、マカオと長崎のあいだで航路が確立され、マカオ商人たちは交易の中心地・長崎を訪れるようになっていた。

イエズス会と貿易


このような世界情勢で権力を握った秀吉は、日本人が奴隷として売られ、虐待され不憫な目に合っていると伝え聞くと、民族意識に駆られ憤怒したのだろう。さらに、 南蛮貿易で日本人が奴隷としてポルトガルに売られ、当時のキリスト教が精神面だけではなく政治的な装いがあることに秀吉は危惧していた。

秀吉政権の中枢では、イエズス会の布教活動と南蛮貿易が一体であるという認識があった。なぜなら、イエズス会士が通訳として、ポルトガル商人と日本人の間を仲介していたからである。

もちろん、奴隷貿易の背景には西洋と日本の文化衝突がある。当時、日本にやってきた西欧人が見なした「奴隷」とは、日本の家族制度や奉公関係で働いている「下人」や「所従」たちである。ポルトガル商人はこのよう日本人たちを「法律上の奴隷」と認識し、取引対象と見なした。

それとは知らず、海外への奉公と思い、進んで志願した日本人もいたことであろう。まさか、奉公人が奴隷扱いされるとは思ってもいなかった。

西欧と日本では「奴隷の概念」が大きく異なっていた。


ー岡崎 匡史

PS. 以下の文献を参考にしました。
・ルシオ・デ・ソウザ「一六〜一七世紀のポルトガル人によるアジア奴隷貿易」中島学章編『南蛮・紅毛・唐人』(思文閣出版、2013年)
・岡美穂子『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』(東京大学出版会、2010年)
・池本幸三、布留川正博、下山晃『近代世界と奴隷制 大西洋システムの中で』(人文書院、2003年)
・牧英正『日本法史における人身売買の研究』(有斐閣、1961年)
・安野眞幸『バテレン追放令』(1989年、日本エディタースクール出版部)